坂城のむかし、むかし

(こうがい)の渡しと笄橋
当社から国道18号線を長野市方面に少し行き、刈屋原の信号を左に曲がると、千曲川にかかる笄橋[こうがいばし(通称もぐり橋)]があります。これは、この橋の名前にまつわる「むかし、むかし」のお話です。

笄[こうがい]の渡しは埴科郡坂城町刈屋原にあり、江戸時代には坂城町側の坂木宿と千曲川の川向こうである力石[ちからいし]とを結ぶ重要な渡し場でした。

時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22(1553)年4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れ別れに城を後にしたのでした。義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。 千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。 (環境省 長野県 中部北陸自然歩道 案内看板より)

現在は「笄の渡し」があった付近に「笄橋」が架けられ、北国街道時代の榎並木の名残をとどめた、刈屋原の堤防にはミニパークがつくられています。

↑笄[こうがい]のかたちを思わせる、初夏の笄橋
↑資料写真ー1:村上義清の葛尾城跡案内看板
↑資料写真ー2:「笄の渡し」の案内看板
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